書1、 書2、 大徳寺塔頭一行物、 仏事

このページは 大徳寺塔頭の一行物 を特集しています。

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書6 松永剛山 山寒花発遅 ¥13.000.- 共箱
掛軸寸法 30.3×181cm 本紙寸法 27.5×99.5cm

 

書20 大徳寺 福本積應 利休居士像 画賛 ¥12.000.-
共箱 掛軸寸法 30.5×171cm 本紙寸法 27.5×100cm 

 

 

 

書19 西垣大道 頭上漫々 さくら絵 ¥12.000.- 紙本
共箱 掛軸寸法 30×136cm 本紙寸法 27.5×63cm

 

 書1、 書2、 大徳寺塔頭一行物、 仏事

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50音順

高橋悦道  昭和23年大徳寺僧堂へ、後藤瑞巌・小田雪窓に師事。昭和28年、明星寺(滋賀県大津市 臨済宗大徳寺派)住職。

細合喝堂 大徳寺塔頭龍源院 住職

須賀玄道 
大正8年1月30日大分県杵築市に生まれる。
元方広寺派管長足利紫山老師、元建仁寺派管長竹田頴川老師に就いて修行。
昭和22年5月、瑞泉寺住職となり現在に至る。
その間、大徳寺派布教師に任命されすでに三十余年の巡教歴がある。

大橋香林
明治34年 岐阜県羽島生まれ 大徳寺 龍王寺住職

小林太玄
太玄(太玄義透=ぎとう)師略伝
昭和13年(1938)奉天に生まれる。6歳で両親を失って出家。昭和36年、花園大学卒業、相国僧堂に掛塔(かとう)。
大津歴堂に参禅。昭和50年、黄梅院住職に就任。昭和63年、更に花園大学福祉学科に学士入学。
遊学研鑽ののち平成3年卒業。現在に至る。

黄梅院沿革
春林宗俶が創立した黄梅庵を、法嗣の玉仲宗秀が小早川隆景の援助を受けて塔頭として増築。
天正16年(1588)に完成した。本堂は代表的な桃山時代禅院建築(重文)であり、伝雲谷筆の襖絵も有名である。
また書院自休軒があり、紹鴎好みの四畳半の茶室昨夢軒がある。庭園は枯山水と苔庭。
境内墓地には小早川隆景、蒲生氏郷ら戦国武将の墓がある。

小堀明堂(大徳寺519世、塔頭大光院住職、昭和61年示寂・世寿83)

森 洞雲 大徳寺 塔頭 玉林院の前住職

佐藤朴堂
福聚院住職 佐藤宗秀 道号 朴堂。昭和22年兵庫県(但馬)大徳寺派蔵雲寺煕道和尚に就て得度。昭和31年京都花園妙心寺専門道場に禅修行のため掛錫。昭和46年大徳寺派福聚院に住職す。昭和52年大徳寺前往位に昇進

宮西玄性 大徳寺派黄梅院住職

橘了庵   (昭和16・1941〜)立花大亀に参禅。大徳寺塔頭徳禅寺住職。著書に「大徳寺一行名品集」など。

西垣 宗興
明治41年岐阜県生。昭和60年没。享年78歳 
京都大徳寺塔頭真珠庵(一休和尚の寺)に入る
同庵南山和尚に得度、僧名宗興、道号文山と改むのち兵庫県城崎の極楽寺住職。

西垣大道(にしがき・だいどう)
昭和17年、兵庫県に生まれる。昭和24年、分山宗興について得度。日本社会福祉大学卒業後、大徳僧堂、のち相国僧堂に掛塔。昭和51年、仏教大学大学院修士課程修了。昭和53年、兵庫県城崎郡の大徳寺派極楽禅寺住職に就任し、現在に至る。

橋本 紹尚(奈良県・神護山 芳徳禅寺)
昭和14年奈良県生まれ。大徳僧堂に掛塔し小田雪窓に参禅。昭和47年芳徳寺(奈良県)住職に就任。
・神護山 芳徳禅寺
芳徳寺は、寛永十五年に、柳生宗矩が亡父石舟斎宗厳の供養のためのち柳生氏代々の菩提所ともなった。

紫野寛道 大徳寺雲林院

長谷川寛州 
老師 臨済宗 大徳寺 紫野 三玄院 元住職

長谷川大真(はせがわ・だいしん)
1957年生まれ。臨済宗三玄院の長谷川寛州の一人息子。駒沢大学仏教学部卒業。相国寺僧堂で約6年修行の後、三玄院副住職、先代の隠居にともない住職となる。

福本積應師
昭和五年 京都府に生まれる
昭和三十四年 大徳寺派招春寺住職を拝命
昭和五十八年 大徳寺派宝林寺兼務住職を拝命
平成十六年 宝林寺を後任住職に譲 再度招春寺住職を拝命

矢野一甫
臨済宗 大徳寺派 蔵雲寺 住職。

山口 萬拙
山口 大痴 やまぐち だいち
<大痴 宗秀 1914〜1985> だいち そうしゅう
大正3年 長崎県に生まれる。
須磨禅昌寺で島田菊遷に就き、相国寺・永保寺・南禅寺の各僧堂において修行を重ねる。
昭和46年 大徳寺興臨院の住職に就任。
昭和60年 遷化 71歳。
晩年は 萬拙とも号した。
大徳寺 塔頭 興臨院の住職

雪尾要道 兵庫県 出石にある 大徳寺派 宗鏡寺 通称 沢庵寺の住職を務める。

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禅語 50音順

随所作主(ずいしょさくしゅ)
『随所作主』とは、いつでも、どこでも、自分の置かれた場所や状況の中で精一杯こころを込めて努め励み、相手を最善に生か すこと、そして自分が生かされ光るのです。何事も自分が主役になるという意味ではありません。
  この『随所作主』は、中国・唐時代の禅僧で臨済宗の開祖、臨済義玄の言葉でこれに続く句があります。「随所作主 立処皆真」(随所に主となれば、立つところ皆真なり)と、 そのことに一所懸命になれば、真実がそこに現れているという意味です。
 いつでも、どこでも『随所に主となる」ことは容易なことではありません。
本物の自分、真実の自己(主人公)という土台がしっかりし ていないと、外からかかったほんのすこしの圧力に振り回されてしまい、右に左にブレてしまいます。あるいは転がってしまいます。
では、「随所に主となる」生き方とは、どのようにしたらよいのでしょう。
その答えは、『無』です。何もない『無』ではなく、『とらわれない、こだわらない、かたよらない心』です。中心に軸があれば安定しま す。「自分を信じ、お釈迦さまの教えを頼りに生きて生きなさい」と先月の法話で示しましたが、その実現が、「随所に主となる」こと なのです。
  春だから梅の花が開くのではなく、梅の花が開くから春が現れているのです。精進努力している処に春が現れていくのです。梅の花 は春を現出せしめているのです。春は精進している中に現れ、春が現れている所には精進している姿があるのです。
光真寺さま 法話より

清風万里(せいふうばんり)
「昨夜一声の雁(さくやいっせいのかり)・清風万里秋(せいふうばんりのあき)」一転して清々しい境涯がどこまでも広がっていく、といった心境が込められている。秋が至るところに訪れて清々しい風が吹きわたる。悟りを開いた瞬間、澄み渡る秋風のように目の前が開ける。絶対平等、万法一如、一心同体の静謐な世界をいう。

重陽菊花香
重陽の祝事は、日本に伝わり、平安時代初期に宮中の儀式として取り入れられた。 天皇が臣下とともにキクを愛で、菊酒を酌みかわし、詩歌を詠み楽しんだ。これを菊酣宴、菊花宴ともいった。

豊年兆
天候が和順であれば豊年満作が期待されるという事。 和やかな心、和らいだ気持ちが満ちてこそ、豊かな暮らしに恵まれるのである。

無事是貴人(臨済録) ぶじこれきにん
『白馬蘆花に入る −禅語に学ぶ生き方−』
(細川景一著・1987.7.禅文化研究所刊)より
 『臨済録』にある有名な語です。歳末が近づくと、どこの茶席にもこの語が掛かります。この一年間、たいした災難にも遭遇することなく、無事安泰に暮らせたという喜びと感謝の念を表わすと同時に、師走(しわす)といわれるほど忙しい年の瀬であっても、決して足もとを乱すことなく、無事に正月を迎えられるようにと祈って、この語を重用します。
 しかし、禅語としての「無事是れ貴人」の意は少々違います。無事とは、平穏無事の無事でもなく、また、何もせずにブラブラすることでもありません。無事とは、仏や悟り、道の完成を他に求めない心をいいます。貴人とは「貴族」の貴ではなく、貴ぶべき人、すなわち仏であり、悟りであり、安心であり、道の完成を意味します。
 私たちの心の奥底には、生まれながらにして仏と寸分違(たが)わぬ純粋な人間性、仏になる資質ともいうべき仏性(ぶっしょう)というものがあります。それを発見し、自分のものとすることが禅の修行であり、仏になることであり、悟りを得るということです。私たちは、えてしてそれを外に求めてウロウロするのが現実です。
 「求心(ぐしん)歇(や)む処(ところ)、即(すなわ)ち無事(ぶじ)」と、臨済禅師は喝破(かっぱ)します。求める心があるうちは無事ではありません。「放てば手に満てり」という言葉がありますが、「求心歇む処」が無事であるのです。その無事が、そのまま貴人です。
 「但(た)だ造作(ぞうさ)すること莫(な)かれ、祇(た)だ是れ平常(びょうじょう)なれ」と、臨済禅師は無事を詳解します。「面倒くさい」「むずかしい」の反対語に「造作(ぞうさ)なく」という言葉があります。当然のことを造作なく当然にやることが平常であり、無事というわけです。いかなる境界(きょうがい)に置かれようとも、見るがまま、聞くがまま、あるがままに、すべてを造作なく処置して行くことができる人が、「無事是れ貴人」というべきです。
 今日の池ノ坊流の華道を創立した池坊専応(せんのう)は、あるとき、千利休の茶の師である武野(たけの)紹鴎(じょうおう)に依頼されて花を活けます。あまりの見事さに感心した紹鴎は質(ただ)します。
「あなたは、どんな心境でこの花をお活けになりましたか」
 専応は答えます。
「いろいろの千草にまじる沢辺かな――という句を頭に描いて花を活けました」
 沢辺に咲き乱れるさまざまの草花には、美しく見せたいとか、目立ちたいとかいうはからいは微塵もありません。ただ、無心に一生懸命に咲いているだけです。
 専応も花活(い)けに向かって上手に活けようと意識するわけでもなく、紹鴎を感心させようと小細工を弄(ろう)するわけでもありません。造作なく、すなおに、「いろいろの千草にまじる沢辺かな」の句を想い描いて、花を一本一本挿していっただけです。
 専応もまた、無事底の一人であるのです。

本来無一物(ほんらいむいちもつ)
慧能(えのう)(638〜713)
中国禅宗の第六祖、六祖大師ともいう。諡(おくりな)は大鑑禅師。
禅を端的に言い当てたこの語は、慧能禅師の言葉。
これは慧能が師の第五祖弘忍(ぐにん)禅師から法を継ぐ契機となった詩偈(しいげ)に由来、
禅の古典『六祖壇経』には次のように掲載される。

当時、 弘忍禅師のもとには七百人余の弟子達が厳しい修行の日々を送っていた。
ある日、師は後継者を決定するため「悟りの境地を示した詩偈を作れ」と弟子達に命じた。
学徳に優れ信望厚く、彼こそが六祖に相応しいと噂の神秀上座(じんしゅうじょうざ)は次のような詩偈を作った。
『身はこれ菩提樹、心は明鏡台の如し、時々に勤めて払拭して、塵埃をして惹かしむること莫れ』
この詩偈を聞いた弟子たち、誰もが賞賛した。
ただ一人それに背く者がいた。寺男として米つき部屋で黙々と働いていた慧能(えのう)。
「よくできているが完全ではない。私はこう思う。」と言い、無学文盲にて、近くの童子の筆の助けを借り、
『菩提、本(も)と樹無し、明鏡も亦、台に非づ本来無一物 何れの処にか塵埃を惹(ひ)かん』との詩偈。

神秀は、身は菩提(悟り)を宿す樹、心を曇りなき鏡に例えて、
煩悩の塵や埃を常に払い清めるが如く修行の段階を経て
悟りにいたる境地を詩偈で示した。

慧能は「菩提はもとより樹でなく、鏡もまた鏡でない。本来、無一物であるのに、
どこに塵がつくところがあろう」と 頓悟(とんご)の境地を示した。換言すれば、

悟りや煩悩の概念に囚われた世界をきっぱりと否定し、「悟り」「煩悩」ばかりか
「一物(いちもつ)も無い」と言う考え方さえ存在しない、一切の囚われを
否定しつくした世界こそ、禅である。と説いた。 結局慧能が第六祖に選ばれた。

神秀は北宗禅の祖となったが、慧能は南海に帰り、民間にあって説法し多くの信者を集めた。
慧能の禅は、南宗禅と呼ばれ、臨済宗や曹洞宗など五家七宗禅は皆南宗禅から由来している。